こんにちは。
共働き夫のうまそえおさむです。
私はYouTubeでこの1年ぐらいは「しげ旅」にハマっています。
「しげ旅」を見ていると、いつかこの場所を訪れたら
・この居酒屋に行きたいな
・この絶景を見たいな
なんてことをよく思います。
動画に出てきたあの場所はどこだっけ?なんて思うときは、もう一度見返したりしていますが、外出中で動画を見られないようなときもあります。
そんな時のために、「しげ旅」に出てきたところを忘れないように文字にしておけば、今度旅行をする時に役立つのではないかと思いました。
まだ見ていない方は、ぜひ動画からご覧いただければと思います。
また、後半では偉大な外交官 杉原千畝について調べて+α情報としてまとめました。
・外交官 杉原千畝について簡単に知りたい方
「しげ旅」がビリニュスで訪れた場所一覧
「・」はしげさんがお店で食べたり飲んだりしたものです。
リンク先はそのお店のトリップアドバイザーのクチコミサイトです。
【+α情報】偉大な外交官 杉原千畝
しげ旅でも旅の目的地の一つになった杉原記念館。
「命のビザ」の物語の主人公である偉大な外交官 杉原千畝の半生について、ここでは簡単に紹介したいと思います。
1900年、千畝は岐阜県でごく一般の環境と家庭の中で生まれ育ちました。
外交官留学生試験に猛勉強の末合格し、19歳の時に中国のハルピン学院に入学しました。
ロシア語留学生として学び、1924年、ハルピン日本領事館で働きます。
35歳の時にソ連との間で北満州鉄道譲受交渉を担当し、ソ連側の当初要求額6億25百万円を1億4千万円まで値下げさせることに成功しました。
この時の千畝の手腕は、外交部や満鉄関係者からは高く評価されましたが、逆にソ連側には強い警戒心をひき起こしました。
一旦帰国後、念願の在モスクワ日本大使館の二等通訳官に任命されますが、ソ連側が拒否したことで、モスクワ行きが叶いませんでした。
行先をヘルシンキに変更され、そこからソ連および欧州の情報を日本の外務省に送ることになりました。
39歳の時にリトアニアの臨時首都カウナスに領事開設を目的として領事代理に任命されました。
この頃、ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大していました。
国外脱出を図るヨーロッパ中のユダヤ難民にとっては、一時避難していたリトアニアから、シベリア鉄道に乗ってアジア極東に逃げ、日本か中国を経由して、入国ビザを必要としない南米スリナム、キュラソーなどのオランダ領への逃亡を目指すしか、生き残るすべは残っていませんでした。
ちなみに、「アンネの日記」を書いたアンネ・フランクも、この頃屋根裏部屋で捕らえられたといわれています。
そして、1940年7月18日の早朝、千畝がいるカウナスの領事館にユダヤ避難民がビザを求めて殺到しました。
緊迫した中、本省と連絡を取り合う千畝。
苦悩の末、「発給要件を満たさぬ者へのビザ発給はならぬ」という本省の命令に背き、ビザを発給する決心をしました。
1940年7~8月にかけて、千畝がビザの作成に必死で取り組んでいた頃、外務省は千畝に対し、カウナスの領事館を閉鎖してドイツの占領下にあるチェコのプラハへ転出するよう命じます。
一人でも多くの命を救うために、『命のビザ』を時間も惜しんで書き続けた千畝は、領事館を退去した後もホテルで渡航許可証を書きました。
そして、出国の日も駅まで押しかけてきたユダヤ人たちに、車窓からビザを手渡したのでした。
リトアニアを出国した千畝は、プラハなどで諜報活動を継続しましたが、最後の公務勤務となるルーマニアのブカレストで終戦を迎えます。
収容所生活を送ったのち、1947年にようやく帰国しますが、その直後に外務省から新しいポストがないことを理由に退職通知書が送られてきます。
その後、千畝は生活に追われ職を転々とし、長い間名誉を回復することはできませんでした。
千畝は1994年に亡くなりますが、完全な名誉回復は2000年になってようやく行われました。
現在では千畝は外務省においても名誉ある先輩として扱われてるそうです。
※今回の記事は、下記参考文献の「杉原千畝記念館」ホームページと書籍「杉原千畝の半生 日本のシンドラー ナチスからユダヤ人を6000人救った男」から引用したものです。
(参考文献)
ホームページ:杉原千畝記念館
書籍:杉原千畝の半生 日本のシンドラー ナチスからユダヤ人を6000人救った男(著者:みのごさく、発行日:2015年4月16日)
今回、杉原千畝の半生に触れたことで、いつかリトアニアを旅する時には、必ずカウナスの杉原千畝記念館を訪れたいと思いました。
以上、共働き夫のうまそえおさむでした。